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「主の諭しを・・主の懲らしめを・・・」 (箴言3章.6)
「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。」 (11節 )
「諭し」 とは、言葉によって人のあやまちを正して訓練することです。
「懲らしめ」 は、具体的な制裁によって訓練することです。どちらも同じあやまちを二度と繰り返さないように、その人を打ちます。その諭しや懲らしめが真剣であればあるほど厳しいものとなるでしょう。
主から優しくされて、主の愛を知ることがあります。
「青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに」
伴われるようにして、主の愛を知るのです。 (詩編23:2) しかし、主から厳しくされて、主の愛を知ることもあります。罪を犯したダビデは、主の諭しを拒まず、主の懲らしめを避けませんでした。預言者ナタンによって伝えられた主の御言葉は容赦ないものでした。
「その男はあなただ。」
「剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。」
「見よ、わたしはあなたの家の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。・・・」 (サムエル下12:7−12)
その御言葉はそのとおりに実現していきました。このような仕方で御言葉の真実を確認するのは、どれほど辛い経験だったでしょうか。しかしそれでも、ダビデの生涯が教えていることは、これです。
「わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。」
「かわいい息子を懲らしめる父のように、
主は愛する者を懲らしめられる。」 (10節)
懲らしめの中で、人はどうすればよいのでしょうか。ただ主を信じて従うのみです。懲らしめられて悲しければ悲しいほど、主に近づかなければなりません。確かに懲らしめられるなら、自分に失望したくなるかもしれません。あるいは主を恐怖したくなるかもしれません。そして、主が自分のような者を助けてくださるとは思えなくなるかもしれません。しかし、懲らしめは、かわいい息子を追い出すためではありません。御自身のもとに立ち返らせて、近づかせるためです。
「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。
人の子を苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない。」 (哀歌3:32−33)
「霊の父はわたしたちの益となるように、
御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」 (ヘブライ11:10)