| << Prev. |
「わたしに聞き従う人」 (箴言1章.9)
「だから、自分たちの道が結んだ実を食べ 、
自分たちの意見に飽き足りるがよい。」 ( 31節 )
主の勧めや懲らしめを全く気にかけることもなく、自分の思いどおりに進むことこそ、どんどん先へ進む道のように思われるかもしれません。ある意味でそのとおりです。主の懲らしめに苦しむ一人の信仰者は次のように告白しました。
「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、むなしかった。日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける。」(詩編73:13−14)
自分の思いどおりに進む者が「安穏で財をなしていく」一方で、自分には主の懲らしめ以外の何も無いように思われたのでしょう。(詩編73:12)しかし、「自分たちの道が結んだ実」を食べることは、それがどんなに成功の果実のように思われたとしても、主の御前では決して手放しで喜べることではありません。そのためにいろいろと考えたり、思い煩ったり、恐れたり、誇ったり、・・・、あれこれと繰り返して、「自分たちの道が結んだ実」を食べる人に対して、主はこう言われます。
「自分たちの意見に飽き足りるがよい。」
「浅はかな者は座して死に至り、
愚か者は無為の内に滅びる。」 (
32節 )
「浅はかな者」「愚かな者」の浅はかさや愚かさは、人前ではなく主の御前でのことです。いかに多くの知識と経験に恵まれ、賢い者として認められていたとしても、主の勧めと懲らしめを無視するなら、主の御前では浅はかで愚かです。それにもかかわらず、彼らにとって主の御言葉は愚かしくて本当のこととも思われないでしょう。主は彼らに対してこう言われます。
「自分たちの意見に飽き足りるがよい。」
その一方で「主に聞き従う人」は、しばしば主の懲らしめと勧めしかないように思われることがあるかもしれません。そして、「自分たちの道」を行く人々に大きく遅れをとっているように思われるかもしれません。しかし、主の懲らしめと勧めがあるということこそ、主が共におられるということです。その人は進めば進むほどに、主を知るでしょう。そして、主の勧めと懲らしめに飽き足りることは決してありません。
「わたしに聞き従う人は確かな住まいを得、
災難を恐れることなく平穏に暮らす。」 (33節)