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「主を畏(おそ)れることは知恵の初め」 (箴言1章.2)08/19/2007

「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭(さと)しをも侮(あなど)る。」
(1:7)

 「主を畏(おそ)れる」とは、主なる神をびくびくと恐怖することではありません。
そのような恐怖は不信仰なものです。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。
結構なことだ。
悪霊どももそう信じて、おののいています。」
(ヤコブ2:19)

「主を畏れる」とは、主を畏れ敬い、信頼し、礼拝をもって応答することです。正しく主を畏れた人々はそのように主を礼拝しながら従ってきたし、これからも同様です。(参考ローマ12:1−2、ヘブライ11:1−38 )

 「知恵の初め」とは、あらゆる知識の出発点であり、基礎であり、支配的な原理だということです。
すなわち、この知恵を欠いているなら、いかに多くのことを知っても結局はむなしいのです。

「わたしは太陽の下に起こるすべてを見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。」
(コヘレト1:14)

 「無知な者」とは、知識のない者ではありません。
いかに博学の人であっても、神の御前では「無知な者」であり得ます。すべてのものを創られ、保たれ、贖われる神が存在するならば、その御方を知らないということは、知るべきことを知らないままに過ごしていることになるからです。また、この世界と人間について多くのことを知りながらも、その世界と人間が神によって創造され、その摂理によって保たれ、その贖いによって永遠に救われようとしていることを見ないからです。

 しかも、それらのことは、聖書の御言葉(神の啓示)によって知るしかありません。
しかし、主を畏れることがなければ、いかに聖書によって示されても、それを侮ってしまいます。
まさしく「主を畏れることは知恵の初め。」

時が良くても悪くても、またいかに迷ったとしても、
ここに立ち返るなら、知るべきことを知ることができるでしょう。