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「これは知恵と諭しをわきまえ・・・」 (箴言1章.1)
「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。
これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため」 (1−2節)ここで「知恵」と呼ばれているのは、常に「主を畏れること」から始まって、そこから離れないような知恵です。それゆえ、たとえ多くのことを知っていたとしても、主を畏れることがないなら、「知恵」を持っているとは言えません。「主を畏れることは知恵の初め。」(7節)
「諭し」とは、人を訓練する言葉です。「知恵と諭し」は、人にとって必要な言葉ですが、決して聞きやすい言葉ではありません。侮ったり、反発したりしたくなるような言葉です。しかも、人は、「知恵と諭し」を侮ることの危険や愚かさに気づけないままに、確信をもってそのようにするのです。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(7節)
では、どのようにして「知恵と諭し」を素直に聞けるようになれるでしょうか。箴言の学びはとても有効です。「これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため、諭しを受け入れて、正義と公平に目覚めるため、未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため。」(2−4節)熟慮や知識や慎重さを持つということは、何もしないということではありません。しなくてもよい苦労や危険は避ける、ということです。むなしい苦労や、あくまで避けなければならない危険な経験があります。しかし、不幸にも、未熟な者はそのむなしさや危険を教える「知恵や諭し」を侮ってしまいます。そうならないように、箴言に親しみましょう 。また、自分は未熟ではないし、若者でもないし、箴言に親しむ必要はないと思う人がいたなら、次の御言葉に耳を傾けなければなりません。
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
(第一コリント8:2)
「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。」
(ルカ22:26)誰も箴言を卒業することはできません。
主がわたしたちに「知恵と諭し」を素直に聞く心と耳を与えてくださいますように 。