「世が与えるように与えるのではない 」(05/11/2008)

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。
         おびえるな。」
(ヨハネ14:27)

  不信仰な世が与える安心は、見えるものから生じます。キリストのたとえに登場する金持ちは、大きな倉を建てて、こう言おうとしました。
「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。」 (ルカ12:19)

しかし、彼は、神から次のように告げられます。
「愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。」 (ルカ12:20)
 
また、父の財産を相続した息子のたとえからも、同様のことが学べます。彼も相続した財産を見て、使い果たすまでは安心していたことでしょう。 (ルカ15:11−13) しかし、どんなにたくさんの蓄えも財産も、永続する安心を与えるものではありません。蓄えがあっても、命は無くなります。また、どんなにたくさんの財産も、使えば無くなります。

 それに対して、神が与えてくださる安心は、見えないものから生じます。
「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。
見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
(第二コリント4:18)
 
では、どのようにして見えないものに目を注ぐことができるでしょうか。御言葉が、見えないものを見るための眼鏡の役割を果たします。それ自体としては災いとしか見えないものさえ、この眼鏡を通して見るなら、そうではないかもしれません。あのパウロも、我が身に与えられた弱さに苦しんで熱心に祈りました。
  しかし、一つの御言葉が与えられました。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」
その御言葉を通して自分の弱さを見るようになった時、すべては変わりました。

「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 (第一コリント12:9)