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『多くの富と善い業』(詩編112編.2) 11/28/2004

「彼の家には多くの富があり、彼の善い業は永遠に堪える。」(3節)

 どんなに多くの富を持っているように見えても、その本人がその富に満足しているかどうかは別の問題です。「銀を愛する者は銀に飽くことなく、富を愛する者は収益に満足しない」と言われているとおりです。(コヘレト5:9)また、死の時にはどんなに多くの富を持っていても、役に立ちません。「労苦の結果を何ひとつ持っていくわけではない。」(コヘレト5:14)この詩編でうたわれている「多くの富」は、主を畏れる人の所有する「多くの富」です。ダビデ王は「富と栄光に恵まれた人生に満足して」死にました。(歴代上29:28)また、信仰を抱いて死んだ信仰者たちは、この地上ではよそ者であり、仮住まいの者であるようにしながら、その生涯を歩み抜いていきました。ダビデほどの富を得ることはなかったでしょうが、ダビデと同様に「喜びの声をあげて」死んでいきました。(ヘブライ11:13)さらに、使徒パウロは「すべてを失いました」と言いながら、はるかに優ったものを持っていました。(フィリピ3:5−8)彼らは皆、主を畏れる人々であり、彼らの家には確かに「多くの富」があったのです。

 主を畏れる人は、「多くの富」だけではなく、「善い業」をも持つことになります。自分の分や能力を超えたことはできないでしょう。それゆえ、自分でも覚えていないほど小さくささやかな業しかできないかもしれません。しかし、それでも神は永遠にその業を覚えていてくださるのです。歴史上の偉業は人々に長く覚えられて、歴史の評価によく堪えます。それに対して、主を畏れて行う善い業は、人にも自分にも認められないような業であっても、神に覚えられて、神の裁きに「永遠に堪える」のです。(マタイ25:31−40)

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、
   動かされないようしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。」(第一コリント15:58)