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『いかに幸いなことか』(詩編112編.1) 11/21/2004

「主を畏れる人。」こそ、幸いな人です。(1節)

 ただし、中途半端に恐れるなら、幸いではありません。(参考マタイ25:24ー28)主の戒めを重荷とするように恐れるのではなく、主の戒めを愛して喜ぶように畏れなければなりません。本当に幸いなのは、「主の戒めを深く愛する」ようにして、「主を畏れる人」です。(1節)神の戒めは窮屈で自由を奪い、人間を惨めにするかのように考えるのは、神の愛を信じないからです。(参考創世記3:4)
神の愛を信じて、神の戒めの中に神の愛を見なければなりません。
 「主を畏れる人」は、子孫に真に継承すべきものを持っている人です。「主を畏れる」信仰を継承するなら、その光の中で子孫の行く末を見ることができます。

「彼の子孫はこの地で勇士となり、祝福されたまっすぐな人々の世代となる」(2節)

 ここで言われている「この地」とは、特定の地域ではありません。この地上のどこに行こうとも、主を畏れる人の子孫にとっては、「この地」です。また、「勇士」とは、いわゆる戦争の勇士ではありません。いかなる時にも勇気を失わない勇士です。「神に従う人は七度倒れても起き上がる。」(箴言24:16)

 信仰の継承においては、子孫の現在の状態は二の次です。親の世代が、継承すべき信仰を持つことこそ何よりもまず重要なことです。継承すべきものを持っているなら、次の世代について希望を持つことができます。必ずしもその目で、次の世代が信仰を継承している姿を生き生きと見ることはできないかもしれません。しかし、継承すべき信仰を持っているなら、信仰によって「望んでいる事柄を確信」することができます。(ヘブライ11:1)そして、その人の信仰の目には、「祝福されたまっすぐな人々の世代」の到来さえ見えることでしょう。(2節)

「いかに幸いなことか、主を畏れる人」(10節)