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『主の慈しみに目を注ぐがよい』(詩編107編 .2) 09/05/2004

 大河を荒れ野として、人の住めない土地としたもう災い。(33−34節)
 荒れ野を湖とし、人の住む町を立てたもう祝福。(35−38節)
 『不毛、災厄、嘆きによって』、人々を『道のない混沌』に迷い込ませたもう災い。(39−40節)
 人々を『貧苦から高く上げ、羊のような大家族』としたもう祝福。(41節)

 主が与えたもう災いと祝福が列挙されています。主を信じる人々にとっては、その災いにせよ祝福にせよ、長い忍耐の果てに与えられたものであり、主に逆らう人々にとっては、主を侮り抜いた果てに与えられたものです。
 主に逆らう人は『大丈夫だ』と言い続けた果てに結果を刈り取るのです。(申命記9:18−27)
それゆえ、主を正しく知ろうとする人は、忍耐が必要です。主の御言葉が目前の現実に勝ってわたしたちの心を捉えるのでなければ、主を正しく知ることはできません。(参考 箴言4:29)

    『正しい人はこれを見て喜び祝い、不正を行うものは口を閉ざす。』(42節)
 主を正しく知りたいなら、信仰によって正しく歩もうとしなければなりません。『正しい人』にとって、主の御業は祝福であれ災いであれ、『これを見て喜び祝う』べきものです。バビロン捕囚の苦しみは民全体に及びました。しかし、『正しい人』には、それでもなお待ち望むべき希望があり、歩むべき道は明らかでした。(エレミヤ25:8−14、29:10−14)他方、主を侮った人に希望はなく、口を閉ざすしかなかったのです。

 主のご計画の成就は、主を信じる人にも信じない人にも、時間がかかりすぎるように思えるでしょう。それゆえ、信仰者の信仰は試され、逆らう者の不信仰は助長されます。しかし、祝福にせよ災いにせよ、主が御言葉を成就せずに済まされることはありませんでした。

 『知恵ある人は皆、これらのことを心に納め、主の慈しみに目を注ぐがよい。』(43節)