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『諸国の民を滅ぼさず・・・』(詩編106編 .9)
「主が命じられたにもかかわらず、彼らは諸国の民を滅ぼさず・・・」(34節)
約束の地に住みつくための現実的な選択は、ある程度の戦いを終えた後には、その地の民と協定を結んだり、縁組みをしたりすることのように見えました。主が導き入れて下さった地にすむ「諸国の民」は、数においても、力においても、イスラエルに優っていたからです。(申命記7:1)しかし、主は、あくまで戦うように命じられました。(申命記7:1−5)「諸国の民」が奉じる神々を全く斥けて、ただ主なる神のみに仕える「聖なる民」であり続けるためです。(申命記7:6)
当時の「諸国の民」は、罪の極みに達していたと思われます。(参考 創世記15:16)それゆえ、当時の世界において、主の民が文字通り「聖なる民」であり続けるためには、あくまで戦うしかありませんでした。しかし実際には、イスラエルの民は主への信頼と服従を捨てて、現実的な妥協の道を進みます。そして、その結果は主が警告しておられたとおりのものでした。息子や娘さえも、偶像のために犠牲にするほどに道を見失ってしまったのです。(申命記34−36節)
確かにあくまで妥協することなく戦うようにとの主の命令は、人間の現実的な判断に合いませんでした。しかし、主の命令が正しいかどうかを問うのは、信仰の課題ではありません。それは信仰以前の問題です。その命令に従うとは具体的にどういうことかを問うことこそ信仰の課題です。(ローマ12:2)諸国の民の滅亡には一気に進みませんでした。(申命記7:22)そして、その中で味わう困難を通して、イスラエルは主の命令への信頼を失い、罠に陥りました。いかなる時も主の命令を信頼して忍耐しつつ、どのように具体化すべきかを問い続けることこそ、信仰の課題です。