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『バアル・ペオルを慕い・・・』(詩編106編 .7)
「彼らは、バアル・ペオルを慕い、死者にささげた供え物を食べた。」(28節)
この罪を犯した者たちは、40年にわたる荒れ野の生活の中で鍛えられた人々でした。神を信頼して戦い、周囲の民が脅威を感じるほどでした。(民数22:1−4)しかし、その民が約束の地を目前にしながら神を捨て、異教の神バアル・ペオルを拝んだのです。(民数25:1−3)バアル・ベオルを信じるモアブの娘たちに従ったからです。彼女たちとその生活に魅力を感じたのでしょう。危険な誘いを断ることはありませんでした。(民数記25:1−3)しかし、その魅力は一時的で表面的なものです。神に従う生活の魅力がいかに深く、永遠に尽きることのないものであるかを知らなければなりません。
主の怒りは当然です。愛する者の裏切りに激しく怒るのは、当然です。裏切られても怒ることのない夫は、妻を本当に愛しているとは言えないでしょう。悔い改めれば赦すのが、神の義務のように考えるのは、都合の良い人間的中心的な神観です。神の御心を旧新約聖書にわたって問う時、悔い改めた自分の心のみを重んじることはできません。新約の神は愛の神、旧約の神は怒りの神などという浅薄な神観は、聖書と無縁のものです。『その怒りが激しかった」のは、本当に神がイスラエルの民を愛しておられたからです。
「・・これは代々に、そしてとこしえにピネハスの正しい業と見なされるであろう。」(31節)(民数記25:6−13)
ピネハスの業が『正しい業」と見なされたのは、主の憐れみによります。犯した罪から比べれば、ピネハスの業は貧弱なものに他なりません。しかし、罪を犯した子をなんとか赦そうとする父のように、神はイスラエルを赦そうとなさったのです。神の愛はまさしく真実です。
隠れた所で、隠れたことを見ておられる神を本音で信じる信仰が必要です。(参考マタイ6:6)