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『主は願いをかなえられたが・・・』(106編 .4)
「主は、その願いをかなえられたが、
彼らをやせ衰えさせられた。」(15節)
マナを食べ飽きて肉を求めた民の願いはかなえられましたが、それは彼らを衰えさせただけでした。(民数記11:18‐20、33)願いがかなえられることが必ずしも良いことだとは言えません。願いを聞いてくださらない主の訓練は「当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」かもしれません。(箴言3:12、ヘブライ12:11)しかし、後になれば、願いどおりに事が運ばず、悩み苦しみつつも鍛えられた道筋を喜びと感謝をもって振り返ることができるでしょう。
自分の願いを先に立てず、主の御心を求めて祈りつつ進む人は幸いです。
「彼らは宿営でモーセをねたみ、
主の聖なる人アロンをねたんだ。」(16節)
モーセとアロンに反逆した者たちの目から見れば、モーセやアロンと自分たちの間に大した違いもないように見えたのでしょう。実際、反逆した者たちも、イスラエルの中で指導的立場にある者たちでした。(民数記16:1‐3)モーセとアロンを斥けて、自分たちが取って代わっても何の問題もないと思えたに違いありません。しかし、彼らは、主がモーセとアロンを立て、自分たちをも立ててくださったことを見落としていました。彼らは、自分の分に満足すべきでした。人々の間では、上に立つとか下に立つということが重んじられます。しかし、それは、主の御前ではどうでもよいことです。人の間で重んじられても、主の御前に立つ時に「知らない」と言われたなら、取り返しがつきません。
人の間で軽んじられても、主の御前でその名を覚えられて、その名を呼んでいただくことこそ、喜びとしなければなりません。
(参考マタイ7:21‐23、ルカ10:17‐20)