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『主に向かって喜び歌おう (詩編95編 .2)』
「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、
心を頑なにしてはならない。」(8節)
荒れ野で「心を頑なにした」人々がまず行ったのは、神に自分たちの願いや思いを申し上げることもなく、ただモーセと争ったことでした。(出エジプト17:2)そして、「果たして、主は我々の間におられるかどうか」と言い出したのです。(出エジプト17:7)「心を頑なにする」とは、神の存在さえも疑うほどの不信仰に陥ることです。
神の存在を信じ、神の御意志を信頼していたならば、モーセと争うことも、神を試すこともなかったでしょう。
祈ることもできないほどに「心を頑なにしてはならない」のです。
荒れ野において、大半の者たちは「心の迷う民」でした。自分の道を行こうとするばかりで、「わたしの(主の)道を知ろうとしなかった」からです。(10節)彼らにとって、荒れ野の40年は、同じ所をむなしく引きずり回されているようにしか思えなかったでしょう。しかし、「憩いの地」に行く道はそこにありました。(11節)すべてのものを造って所有しておられる御方に「ひざまづき」「共にひれ伏し、伏し拝む」人々には、その道が見えるようになったことでしょう。(3‐6節)「憩いの地」に行く道は神の御手の中にあり、その時、それは荒れ野の中にあったからです。
教会のためにこう祈ります。
日々の礼拝を通して、主がわたしたちを養ってくださいますように。荒れ野の旅さえも「憩いの地」に向かう通り道として喜ぶほどに成長させていただけますように。
「主は、わたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる羊の群れ、御手の内にある羊。今日こそ主の声に聞き従わなければならない。」(7節)