| << Prev. |
『いかに幸いなことでしょう (詩編94編 .2)』
「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、
あなたの律法を教えていただく人は。」(12節)
主に「諭され」「教えていただく」ことは、天地万物と歴史を支配したもう神によって訓練され、鍛えていただくことに他なりません。そして、そのように鍛えられた人は、「苦難の襲う時にも静かに待ちます。」(13節)今までどおり、主の諭しと教えに従って忍耐しつつ淡々と行動し、主の救いを「静かに待ちます。」そのような態度は、主によって鍛えられた信仰者たちの中に広く見ることができるものです。サウル王に追われている時のダビデ、奥の牢に入れられたパウロとシラスなどは、主の救いを「静かに待つ」者の良い模範です。(サムエル上26:9‐11、使徒16:25)
この詩編の信仰者は、無力です。正義と秩序を回復する知恵も力も無いのです。(16節)しかし、主の「正しい裁き」を信じ、「(主の)慈しみに支えられ」、「(主の)慰めを自分の魂の慰めとしている」ので、決して絶望しません。(14‐19節)
王座は破滅をもたらす者たちのものです。掟も悪用されています。(20節)まさしく世の秩序はくつがえっているのです。しかし、この信仰者は決して「鳥のように山に逃れよ。・・世の秩序がくつがえっているのに、主に従う人に何ができようか」とは言いません。(詩編11:1‐3)山へ逃れず、主への祈りに逃れます。そして、祈りによって戦います。(22‐23節)「要塞をも破壊するに足る武器」を持つ人とは、このような人のことでしょう。(第二コリント10:4)
主に鍛えられる人は幸いです。
信仰者は鍛えられることなしには、幸いであり続けることができません。