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『報復の神 (詩編94編 .1)』 12/28/2003

 「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください。」(1、2節)

 神の「報復」とは、恨みをはらすことではありません。正義を建て直し、秩序を回復することです。悪を行う者が勝ち誇り、傲慢に語っているのが、この時の現状でした。(3、4節)反対に、やもめや寄留の民が殺され、みなしごが虐殺されていました。(5、6節)そのような乱れた秩序を回復するのが、神の「報復」です。そして、それは神の栄光にふさわしい行為です。そのことは、具体的な事例を考えると、いっそう明白です。イスラエルの王アハブと妻のイゼベルは、隣人ナボトの畑を手に入れるために、ナボトを罠に陥れて殺しました。ナボトが土地を奪われただけで終わったなら、正義も秩序も踏みにじられたままです。しかし、主の言葉がエリヤに臨んで、その言葉はそのとおりに実現しました。(列王上21章、22:37‐38、列王下9:30‐36)栄光ある「報復」がなされたのです。

 「民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。」
(8節)

 ここに、「聞いている自分」「見ている自分」「計画している自分」がいるということが確かなことであるとすれば、それよりもはるかに確かに「耳を植え、目を造り、人間に知識を与え、国々を諭す方」がおられるのです。(9、10節)その御方の存在に気づかず、目覚めることがないことが、アハブ王とイゼベルの愚かさでした。彼らは悪を見抜くことのできない神を造っていたのです。

 神を自分勝手に造ることなく、聖書の啓示するがままに神の御存在と御性質に「気づき」「目覚めて」参りましょう。