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『主を仰いで悲しむ者は幸いである(詩編89編 .4)』 10/26/2003

 詩編89編を4回にわたって学んで参りましたが、この詩編の性格を一言で言うならば、「哀歌」です。この詩編の信仰者が、神に対して一番祈りたかったのは、この詩編の最後の部分でしょう。(39−52節)しかし、そのような悲しみを訴える前に、実に豊かに神の慈しみと真実を讃美しています。(2−38節)そして、いかに契約の当事者である人間が不真実であっても、失われることのない慈しみと真実をほめたたえます。(34?38節)

 それから、ようやく悲しみに満ちた現実に目を向けます。
 しかし、その際にもあくまで神を仰いでいます。そして、現在の苦しみや悲惨のすべての源に神の怒りを見るのです。(39−46節)しかし、その怒りが不当だとして訴えることはありません。神においては、怒りすらも正しいからです。

 この詩編が問うのは、主の慈しみと契約への真実のみです。(47−52節)ただ、そこに根拠を置いて神に訴えます。主を仰いでも仰がなくても、悲しみは耐えがたいことです。しかし、主を仰いで悲しむ人々は不幸ではありません。主の慈しみと契約の真実のゆえに、必ずその人たちは慰められます。「悲しむ者は幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)ただ、現実を悲しむだけなら、自分で自分を憐れむしかないかもしれません。

しかし、そのような自己憐憫はわたしたちの心を腐らせるばかりでしょう。
主を仰いで悲しむ者は幸いです
この詩編はこう結ばれています。
「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン。」(53節)