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『神を思い続けて呻き・・・(詩編77編 .1)』 05/11/2003

祈りは、あくまでもあきらめることなく継続されなければなりません。
(参考ルカ18:1‐8)

 しかし、神を思えば思うほど、自分の罪が明らかになるとしたなら、そのような祈りはどんなに辛いことでしょう。バテ・シェバの夫ウリヤを欺き殺したダビデにとって、祈りにはそのような影が常につきまとっていました。(詩編51:5)バビロンに捕囚された民もまた、自分たちの罪とあやまちの結果を刈り取っていました。神は、人から侮られるような御方ではなく、「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取る」ことになります。(ガラテヤ5:7‐8)

 しかし、たとえそうだとしても、あくまでもあきらめることなく祈りは継続されなければなりません。この詩編は、そのような祈りの模範です。神を思えば思うほど、神の怒りと自分の罪が思い浮かぶのでしょう。「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます。」(4節)と告白します。しかし、悩んだ末に祈りをやめるのではなく、「わたしの霊は悩んで問いかけます。」(7節‐10節)ただ、神の憐れみだけに望みをつないで祈っているのです。

 神に近づくわたしたちが、自分の祈りは神に聞かれていると自信を持つことができるとしたなら、その根拠はどこにあるのでしょうか。この詩編の信仰者は、神の憐れみに望みをつないで祈りました。キリストを知ったパウロは、自分の罪を心から思い知らされながら、はっきりとキリストに望みを置いて喜びと感謝にあふれながら祈りました。(ローマ7:24‐8:2)

 この詩編の信仰者がかぼそい灯火のように見つめていた光に包まれるようにして祈っているのです。

キリストを知る人は何と幸いなことでしょうか。