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『そこにおいて・・・(詩編76編 .1)』 04/27/2003

「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる」(4節)

 神の平和は、神御自身が戦いの道具を砕き、戦いそのものを砕かれる時に実現します。
 旧約聖書中、そのことが特に鮮やかに実現した出来事の一つは、アッシリア王センナケリブのエルサレム侵攻と敗走においてでした。(列王下18‐19章)センナケリブは主なる神を侮りましたが、神は彼の企てを驚くほど速やかに砕かれました。
 しかし、いつの時でもこれほど速やかにすべてのことが行われるわけでもないでしょう。
「天の下の出来事には、すべて定められた時がある」からです。(コヘレト3:1)
 教会は、神が速やかに「戦いを砕かれる」ことを祈りつつも、同時にあくまでも忍耐しなければなりません。(ヤコブ1:4)しかし、
ただやみくもに忍耐するのではありません。

 「神はユダに御自らを示され、イスラエルに御名の大いなることを示される。」(2節)
神の啓示の光は、ご自身の選びの民に与えられます。しかも、神は礼拝を受けるべき御方として、その民と共に住まわれます。そのためにこそ、
「神の幕屋はサレム(エルサレム)にあり、神の宮はシオンにあります。」(3節)

 そして、神がその民に「御名の大いなることを示し」、その民の礼拝を受けつつ共に御住みになる「そこにおいて」、戦いを砕かれます。

 神の平和を待ち望む教会は、「そこにおいて」あくまでも忍耐しなければなりません。
「そこにおいて」なら、忍耐することができるでしょう。
ヒゼキヤ王は、あくまでも忍耐してセンナケリブの攻撃を「そこにおいて」受け止めました。(列王下19:1‐19)