| << Prev. |
「ハレルヤ」 (詩編150編.1)
「ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。」 (1節)
「聖所」とはどこでしょうか。
神を礼拝する場所、神の御前です。預言者イザヤは、その場所で自分の滅びを意識しました。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。・・・わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)詩編の信仰者は、その場所で神に逆らう者の行く末を見分けました。
「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」(詩編73:17)
まさしく、聖所とは、神の栄光が何の妨げもなく明らかにされる所です。「大空の砦で神を賛美せよ。」(1節)
「大空の砦」とはどこでしょうか。
「大空」もまた、神の栄光を何の妨げもなくあらわしています。古い翻訳の方が、その意味をよく伝えています。
「その力のあらわれる大空で、主をほめたたえよ。」(口語訳)
詩編の信仰者は、他の箇所でこううたいました。
「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」(詩編19:2)
しかし、不信仰な世は、罪によって複雑になっています。理屈によって閉ざされていて、神の栄光をそのままに賛美することができません。(コヘレト7:29)その妨げを離れて、
「聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。」賛美の呼びかけは、一人一人に与えられています。それゆえ、周りの人々がどうであれ、一人一人が応答しなければなりません。しかし、神を賛美する者たちは、孤独に賛美するわけではありません。主を賛美する人々と共に、その交わりの中で賛美するのです。主の御前で自分を知り人を知り、主の栄光に直面して否応なくへりくだり、互いに相手を自分よりも優れた者として認めながら、主を賛美するのです。キリストを仰いで賛美する人々は、具体的な一人一人の信仰者たちを自分よりも優れた者と考えるように進まざるをえません。(フィリピ2:1−11)
「聖所で」「大空の砦で」
主を賛美する交わりは、いかに自由で喜ばしいことでしょうか。