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「救いの輝き」 (詩編149.3編)
「主は御自分の民を喜び・・・」
( 4節 )
このことを確信するからこそ、「踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌を」うたうのでしょう。(3節)わたしたちも、自分を喜び、受け入れてくれる人の前では、自由に喜びをあらわすことができます。ダビデは、神の箱の前で、裸になって踊りました。
「主の御前でダビデは力のかぎり踊った。」(サムエル下6:14)
妻のミカルは、そのようなダビデをさげすみましたが、ダビデは主に喜ばれていると確信して踊ったのです。
「このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前で踊ったのだ。」(サムエル下6:21)
主は御自分の民を喜んでおられます。人から喜ばれず、自分でも喜べないとしても、主はわたしを喜んでおられます。また、わたしがだれか他のクリスチャンのことを喜べないとしても、主はその人を喜んでおられます。
「主は御自分の民を喜び・・・」(4節)
自分自身に問うてみましょう。
これを信じるか。
「貧しい人を救いの輝きで装われる。」
(4節)
貧しい人は幸いです。人の誉れを求めているうちは、キリストを信じることはできません。
「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」(ヨハネ5:44)
神の誉れにふさわしい衣を身につけようと願うなら、人の誉れを着ようとしてはなりません。
確かに自分で望もうが望むまいが、人の誉れを着せられることも避けられないかもしれません。しかし、そのような誉れをいくら着せられても、主の御前では裸です。主が認めたもう装いは、「救いの輝き」のみです。人の誉れを求めず、神の誉れを求めましょう。
そして、誰をも裁かず、自分で自分を裁くことすらしないほどに、主の裁きの厳しさに向き合い続ける人は、幸いです。その人は、自分が裸の者であることをますます知るでしょう。
「救いの輝き」は、裸の人にこそふさわしい。
「救いの輝き」を、人の誉れの上に重ね着することはできません。