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「いかに幸いなことか」 (詩編146編.2)04/22/2007

「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み
主なるその神を待ち望む人
天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を。」
5、6 節 )

 一般的には、健康、財産、才能、名誉、人気などのようなものをたくさん持っていれば持っているほど、幸いな人のように見えます。しかし、聖書は、そのようなことには関係なく、神を助けとし神を希望とする人の幸いを宣言します。これは、養い強められた信仰によってだけ納得される幸福観です。(ヘブライ11:1)

 主の御言葉と現実はしばしば鋭く食い違っています。主は「虐げられている人」「飢えている人」「捕らわれ人」「見えない人」「うずくまっている人」に、それぞれにふさわしい助けや希望を約束しておられます。
「虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。」「捕らわれ人を解き放ち、見えない人の目を開き、うずくまっている人を起こされる。」
(7、8節)
 
そのような約束のゆえに、それらの人々は幸いだということになるのでしょう。また、神に逆らう者の道は、どんなに栄えていても、不幸と言わなければならなりません。
「主は神に逆らう者の道をくつがえされる。」
(9節)
 
しかし、そのように言われても、素直に納得できるでしょうか。現実はあまりにも固くて歯が立たない食べ物のようです 。

 固い現実と御言葉を噛み砕いて、信仰の糧とすることができるほどの信仰が必要です。そのためには、乳飲み子ががぶがぶとミルクを飲むように御言葉を読むことです。
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じり気のない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで救われるようになるためです。」(第一ペトロ2:1)
 
ミルクを飲んでいるうちに、乳飲み子も固いものを食べ始めるのです。固い現実をじっと眺めて、思いめぐらしているだけでは、何も始まりません。信仰者の幸いは、信仰の成長を必要とします。

「いかに幸いなことか、ヤコブの神を助けと頼み
主なるその神を待ち望む人
5、6 節 )