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「大水から」 (詩編144編.2)
「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち、大水から、
異邦人の手から助け出してください。彼らの口はむなしいことを語り、
彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」 (7,8節 )
異邦人の口が語る「むなしいこと」とは何でしょうか。
また、彼らの右の手が行う「欺き」とは何でしょうか。
この詩編はそれを具体的に語りませんが、聖書の教えによれば、偶像を造って讃美することこそむなしい欺きです。(イザヤ44:9−20)イスラエルの歴史を見る時、主の民はしばしば異邦人の口が讃美し、その手が造る偶像に迷ってしまいました。偶像そのものは、それをあがめる人々の勢いによって、隆盛を誇ったり、衰退したりします。あれほどにイスラエルを迷わせていた異邦人の神バアルも、時を経れば、その跡形もありません。しかし、その大水のような勢いには預言者たちでさえ呑み込まれそうになりました。
主の預言者エリヤは、バアルの名を呼んで叫ぶ者たちに向かってこう言いました。
「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。
神は不満なのか、それとも人目を避けているのか。
恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」(列王上18:27)
確かに、エリヤはバアルの本質を見抜いていました。しかし、その勢いが激しくて、自分の仲間が次々と殺されていく現実の中では、彼自身もその大水に呑み込まれそうになったのです。
彼はこう祈ります。
「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」(列王上19:4)
いつの時代の主の民も、その勢いに区別はあるにせよ、そのような「大水」の中で生きてきました。
この詩編の信仰者は、その中で生ける神が御自身の栄光をあらわして、助けてくださるように祈ります。(5−7節)また、神の恵みと栄光を日々新たに仰いで、「新しい歌」を歌います。(9節)そのような祈りと讃美がある限り、大水の中でも彼は溺れません。すなわち、主の民の幸いを見失わないのです。
「いかに幸いなことか、このような民は。
いかに幸いなことか、主を神といただく民は。」(15節)