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「シオンを思って、泣いた」 (詩編137編)08/20/2006

「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思ってわたしたちは泣いた。」
( 1節 )

  バビロンは、エルサレムを遠く離れた捕囚の地です。シオンは、神殿が建てられていた聖なる山です。今は、そこに神殿はありません。バビロンの王ネブカドネツァルによって破壊されてしまったからです。見える神殿は無くなり、エルサレムを遠く離れていましたが、信仰によって、泣きました。今さら、何を泣く必要があるかとは思わなかったのです。

「竪琴は、ほとりの柳の木々にかけた。」
( 2節 )

 彼らを捕囚にした民は、「楽しもうとして」娯楽のために、「シオンの歌」を歌わせようとしました。「シオンの歌」は、神殿礼拝の歌です。神殿が破壊され、バビロンに連れてこられたことによって、信仰がなえていたら、娯楽として「シオンの歌」を歌うこともできたでしょう。しかし、彼らは歌えませんでした。どんなに強制されても決して歌えないという意志をはっきりと示すかのように、「竪琴は、ほとりの木々にかけた。」(2節)「どうして歌うことができようか、主のための歌を、異教の地で。」(4節)

 そして、さらに次のように誓います。
「エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎にはり付くがよい。もしも、あなたを思わぬときがあるなら、もしもエルサレムを最大の喜びとしないなら。」(5、6節)

 もし、信仰がなえるなら、竪琴を弾けなくなってもよいし、歌を歌えなくなってもよいと誓っているのです。エルサレムに住んで、自由に神殿に出入りしていた時には、ここまで信仰を重んじたでしょうか。むしろ、見えるものを失い、信仰的には多くの妨げに囲まれている時に、信仰が訓練され、強められているのです。

  いったい信仰とは何でしょうか。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(第二コリント4:18)