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『見よ、兄弟が共に座っている』 (詩編133編)06/04/2006

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 (1節)

 もし、人間に罪がなかったなら、人と人が仲良く「共に座っている」のは、とても自然なことだったでしょう。しかし、罪が入ってきた時から、それはこの上なく難しいことになってしまいました。聖書は、信仰者の間にさえも争いが絶えなかったことを伝えています。アダムの息子カインは弟のアベルを殺しました。ヤコブの息子たちは、弟のヨセフを見捨てました。ダビデの息子アブサロムは、兄のアムノンを殺しました。またソロモンも、兄のアドニヤを殺しました。十二使徒の間には、激しい競争心がありました。コリントの教会にもねたみと争いが絶えませんでした。さらに、そればかりではなく、終わりの日には「多くの人の愛が冷える」と言われています。(マタイ24:12)恵みによって守られなければ、批判がましく、ねたみ深く、争い合うようになることはとても簡単なことです。それゆえ、「兄弟が共に座っている」ことは、当然のことではありません。

「なんという恵み、なんという喜び」

「シオンで布告された。祝福ととこしえの命を」 (3節)

 人間に罪がある以上、ねたみと争いを避けることはできません。ただし、それを限りなく小さくすることはできるでしょう。多くを得た人は、今さら人をねたんだり、人のものを手に入れようとして争う必要がなくなります。神の「祝福ととこしえの命」を本当に得たなら、今さら何を欲しがる必要があるでしょうか。キリストを知ることこそ、永遠の命です。(ヨハネ17:3)そして、キリストを知ることのあまりのすばらしさに心を満たされたパウロには、人をねたんだり、人と争ったりする理由が全く無くなってしまいました。「他の一切を損失と」みたからです。

「わたしの主キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」 (フィリピ3:8)