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『御言葉を待ち望みます』 (詩編130編.2)
「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、
御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。
見張りが朝を待つにも増して、見張りが朝を待つにも増して。」
(5、6節)
「わたしの魂は主を待ち望みます」と言う人は、すべてを賭けて主に望みを置いています。そして、そのような人にとって、主を待ち望むとは御言葉を待ち望むことと同一です。彼は、主の与えてくださる一言で満ち足りて喜ぶのです。
確かに御言葉が与えられた瞬間に事が成就したなら、すぐに喜べるでしょう。(マタイ8:13、15:28等)しかし、多くの場合において、御言葉はすぐには成就しません。「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(ヘブライ10:36)しかも、その忍耐は、人間の限界によって制限されていません。人間的には、とても「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。」などとは思えないでしょう。しかし、正しい信仰によって生きるなら、決して御言葉の成就は遅くないのです。(ヘブライ10:37−39)
御言葉を喜ぶ正しい信仰は、キリストの御言葉によって始まります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)そして、キリストの言葉によって永遠の命を確信すると言うなら、この世の一時的なことについては、いっそうの確信をもって、その御言葉に望みを託するべきです。この世の一時的なことを託せないなら、どうしてキリストの御言葉に永遠に関することを託せるでしょうか。天地は滅び、この身体も朽ち果てます。しかし、「神の御言葉は永遠に変わらない。」(第一ペトロ1:25)この御言葉こそが、永遠に信頼するに値するものです。どんな人より、どんな国家より、天地よりも確かなものです。
しかし、わたしたちの信仰は、何と弱く、迷っていることでしょうか。
主の御言葉によって満ち足りて喜ぶことができずに、思い煩い、恐れ、慌てています。
自分の弱さを知り、人の弱さをも知り、大いに励まし合いましょう。
「見張りが朝を待つにも増して」御言葉を待ち望む者であり続けるために。