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『主人の手に目を注ぐように』 (詩編123編)12/18/2005

「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます、天にいます方。」 (1節)  

 この信仰者は、うんざりするほどに嘲笑され、侮られています。(3、4節)「恥に飽かされるのは確かにつらいことです。しかし、それが災いであるとか、不幸であると急いで結論することはできません。この信仰者は、うんざりするほどの嘲笑と侮りのゆえに、「目を上げて」、主を仰ぐことを学んでいるからです。バビロン捕囚からエルサレムに帰還した人々も、同様でした。エルサレムの町を再建するために、城壁を築こうとしましたが、周囲の民から「そんな石垣など、狐が登るだけでも崩れていまうだろう」と嘲笑されました。(ネヘミヤ3:35)腹を立てずに忍耐し、無益な犠牲を生まないようにして、祈りつつ努力するしかありませんでした。しかし、このような歩みを通して、人々の信仰と人格は成長します。「若いときに軛を負った人は、幸いを得る。」(哀歌3:27)

「御覧ください。僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように、 わたしたちは、
神に、わたしたちの目を注ぎ、憐れみを待ちます。」
(6節)  

  神を「主よ。主よ」と呼びながら、実際は神を自分の意のままに動かそうとする「信仰」が存在します。そのような「信仰」には安定がなく、「風に吹かれて揺れ動く海の波」のようでしょう。「そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1:7)


  神と共に歩む喜びを知る人々は、主の僕たちです。
彼らは、主の御手に目を注ぎ、そのかすかな動きさえも見逃しません。

 真実な信仰によって歩んだ主の僕たちは、確かに困難な歩みをしました。しかし、彼らは、いつ、どこにおいても、愛のこもった主の御手のかすかな動きさえも見失わずに喜んでいました。たとえば、主の僕パウロは、大いに苦しみつつ、一つの知らせを受けて、すべての苦労を忘れるほどに喜びました。(第一テサロニケ3:6−10)