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『エルサレムの平和を求めよう』 (詩編122編)
「エルサレム、都として建てられた町、
そこにすべては結び合い、そこにすべての部族、主の部族は上って来る。」 (7節)
エルサレムは、神との平和を楽しむ都として建てられたはずなのに、実際は正反対の方向へと歩み続けました。ダビデによって、イスラエルの都とされた後、その子ソロモンの時にはすでに堕落し始めました。そして、その340年ほど後には、バビロンの王ネブカドネツァルによって都は陥落し、神殿も焼き払われてしまいます。(列王下25章)エルサレムから神との平和が失われた時、イスラエルは「もはや手の施しようがなくなった」のです。(歴代誌下36:15−16)古いエルサレムは、神との平和を拒み続けて、自ら滅びを招きました。しかし、エルサレムの希望が失われることはありません。神との平和を楽しむ新しいエルサレムの基礎が、キリストによって据えられたからです。そして、やがて完成される時を待っています。(黙示録21:9以下)
「エルサレムの平和を求めよう。」 (6節)
まず、わたしたちが神との平和を求めましょう。
それから、わたしたちの属する家族、社会、国家、世界の平和を求めましょう。
クリスチャンも、教会も、この世界にあっては、本当に取るに足らない存在のように見えます。しかし、神との平和を知らずに歩む世界にあって、教会が神との平和の鍵を託されています。神は、まず教会をご覧になり、その声に耳を傾けてくださいます。教会は「地の塩」です。(マタイ5:13)教会が神との平和を軽んじるなら、「地の塩」として役に立たなくなってしまいます。そして、「地の塩」が塩気を失うなら、その損失は教会だけのものではありません。この地全体が腐敗するのです。いかに世に軽んじられても、神の御前には重大な責任があります。
神との平和に歩み、わたしたちの属するこの地の平和(神との平和)を求める責任を最善を尽くして果たしましょう。(第一テモテ2:1−6)