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『目を上げて』(詩編121編)
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。」(1節)
目を上げなければ、山々を仰ぐことはできません。しかし、わたしたちの日常は、山々を仰ぐことのない生活です。目先のことを追いかけ、様々な課題に追いかけられる忙しい生活です。遠くの山々を仰いでいる余裕がありません。時間の余裕もないし、心の余裕もありません。そして、いくら時間があっても足りないように思われます。
しかし、このような忙しさの果てにあるのは、空しさです。
「ああ、人は空しくあくせくし、だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」(詩編39:7)たとえ、それが信仰の熱心から出た忙しさであっても、「人の気に入ろうとしてあくせくしている」なら、キリストと無関係の忙しさです。(ガラテヤ1:10)そのような忙しさの中では、信仰者でありながらも祈る時間さえ惜しくなるでしょう。空しく危険な忙しさです。
「目を上げて・・・山々を仰ぐ」人は、自分の努力を放棄してのん気に過ごしているわけではありません。困難を逃げているわけでもありません。ただ、自分しか頼るものがないように追い詰められていく忙しさとは無縁なのです。そして、ますます確信をもって祈ります。
「わたしの助けはどこから来るのか。」(1節)
忙しければ忙しいほど、難しければ難しいほど、目を上げるのです。
「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(2節)
日常の忙しさの中で、祈りを怠ることは実質的な不信仰です。わたしたちの日常生活に関心をもたずに眠っておられる御方のように、神を見なしています。このような不信仰と、日々戦わなければなりません。
「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることはない。」(4節)
忙しさの中で疲れて眠っている時にも、「主はあなたを見守る方」です。(5節)