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『律法を楽しみとしていなければ・・・』 (詩編119編89−96節) 07/03/2005

 

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、
この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」
(89節)

  自分の人生を賭けて、主に従ってきたのです。もし、喜んで主に従えなかったなら、「この苦しみに滅びていたことでしょう。」ただの苦しみなら、試練ではありません。苦しみの中でも神に従い続けて、神への信仰を試されるから試練となります。そして、その試練の中で、神の愛や義を新たに知るようになるから、試練が喜びとなります。(ヤコブ1:2)そのような喜びに至るためには、忍耐を尽くして神に従うことです。万策尽きたように見えても、主の救いを信じて律法に従うのです。

律法への服従は救いを約束しているから、「あなたの律法は、わたしの楽しみです。」(174節)

  苦しみに遭うこともなく、自分や世の限界を知らない時には、律法を楽しむことなど考えもしなかったでしょう。反対に律法など窮屈なもの、あるいは災いをもたらすもののように思っていたかもしれません。しかし、嫌と言うほど限界を知り、「律法を楽しみとしていなければ・・」と言い出すほどに行き詰ったのです。「飽き足りている人は蜂の巣の滴りも踏みつける。」しかし、「飢えている人には苦いものも甘い。」(箴言27:7)「何事にも終わりと果てがあるのを」見るようになった今は、以前には苦いもののように思えた律法が甘いのです。そして、律法が何であるかを知りました。「何事にも終わりと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。」(96節)

 神に従うことによって、自分の前に開けている未来と世界こそ広大です。
そのような未来と世界を少しでも見ようと思うなら、礼拝の姿勢をもって御言葉に向かわなければなりません。

 そして、御言葉への信仰をもって、神の御座である天を仰ぎましょう。
たとえ、地上では御言葉の成就が耐え難いほど遅いように見えても
「とこしえに御言葉は天に確立しています。」(89節)