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『嘆き祈る声』(詩編116編.1)
「わたしは主を愛する。」(1節)
「彼らの神はどこにいる」と言っている人々は、主を愛することができません。(詩115:2)神の存在を信じるだけでも、愛するとは言えません。神との親しい交わりを経験したからこそ、「わたしは主を愛する」のです。神はご自分の民と共におられますが、そのことがいつも同じように知られているわけではありません。たとえば、父イサクの家を離れたヤコブは、改めて神が共におられることを再認識しました。(創世記28:16)この詩編の信仰者も同様です。それまでも、「神が存在しておられること」と「神はご自分を求める者たちに報いてくださる御方であること」を信じていたにちがいありません。(参考 ヘブライ11:6)しかし、改めて「わたしは主を愛する」と言うほどに、その存在を信じるようになったのです。
「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。」(1節)
なぜ、彼は「愛する」ほどに主を信じるようになったのでしょうか。主に対して、自分の死を間近に意識しながら「嘆き祈る声」を挙げたからです。「死の綱がわたしにからみつき、陰府の脅威にさらされ、苦しみと嘆きを前にして、主の御名をわたしは呼ぶ。」(3‐4節)死に直面して、神の御名を呼ぶ以外に何ができたでしょうか。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」(4節)そして、以前とは比べられないほどに、神を身近な御方であると知るようになったのです。
わたしたちの信仰生活にも、このような「嘆き祈る声」が必要です。何としても神に救っていただかなければならない者として、あくまでも神に祈る者でなければなりません。(参考 ルカ18:1‐8)たとえ、平穏な時でも、「嘆き祈る声」がわたしたちの祈りと信仰生活の基本的な姿勢の中に必要です。死ぬべき者であることを忘れて、自分に頼ったり安心したりしようとするのは、神の御前では愚かなことだからです。(参考 ルカ12:16‐21)
「嘆き祈る声」を挙げて、「生涯、わたしは主を呼ぼう。」(1節)