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『わたしたちでなく・・』(詩編115編 @) 01/23/2005

「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、
         あなたの御名こそ栄え輝きますように・・・」 (1節)

 これは、「彼らの神はどこにいる」と言っている人々に囲まれている信仰者の詩編です。(2節)旧約のイスラエルの歴史においても、キリスト教会の歴史においても、たいていの場合、信仰に挑戦している勢力の方が強大でした。しかし、この祈りは、主の御名が栄え輝けば、弱小勢力にすぎない信仰者たちが片身の狭い思いをしなくてすむだろうなどという打算を一切含んでいません。神の栄光を仰いで、自分のことを忘れ去っているのです。実際、神の栄光は、信仰によってでなければ、認められることのないものです。神が、「慈しみとまことによって」その栄光をあらわしたもうからです。

 山を震わすような主の御声には、人々は心から震えて聞き従います。(出エジプト20:18‐19)しかし、みすぼらしい主の僕たちが遣わされて語る時には、聞こうとしませんでした。反対に、この僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺しました。しかし、神は、「慈しみとまことによって」語るために、さらに多くの僕たちを送られました。結果は同じことでした。しかし、驚くべきことには、それでもなお、神は「慈しみとまことによって」ご自身の栄光をあらわそうとされたのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、キリストを遣わされました。(マタイ21:33‐37)彼こそ「恵みと真理に満ちている」御方です。(ヨハネ1:14)しかし、その栄光を見たのは、信仰者だけです。わたしたちの信仰生活が肩身が狭いような気がするのは、周囲が理解してくれないからではありません。「慈しみとまことによって」あらわされた神の栄光は、信仰によってでなければ、わからないのです。

 だから、自由な信仰生活を望むならば、わたしたち自身が自分のことを忘れるほどに、神の栄光を知るしかありません。周囲の環境には、いつでも難しさがあります。

 「彼らの神はどこにいる」と言う人々にとって、偶像の方が存在感がありました。それは、「慈しみとまことによって」ご自身をあらわす神の御旨を理解しないからです。神は「御旨のままにすべてを行われる」のです。(3節)しかし、人々は異常な出来事には驚嘆しても、通常の出来事の中にあらわされる「慈しみとまこと」を認めません。

主の僕たちを送って語り、独り子キリストを与えたもう神の圧倒的な存在感を認める信仰が与えられるように祈り求めて参りましょう。