| 教会委員会だより | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 発行日: 2007年7月29日 ( 日 ) | |今後の予定| | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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クリスチャンだけが祈るわけではありません。ほとんどすべての人間が祈ります。まったくの無神論者がいたら、祈らないかもしれませんが、祈りの欲求を人間の中から完全に無くしてしまうことはできないでしょう。共産主義は宗教を科学的に分析し、それを排除するはずでした。しかし、歴史によって証明されたのは、人々の祈りへの欲求はいかなる力をもっても消し去ることはできない、ということです。しかも、クリスチャンの祈りは、生ける神との生きた対話であることにおいて、他宗教の祈りと決定的に違います。 2、御言葉なくして、神に正しく祈り続けることはできない。奴隷とされていたイスラエルの民は労働のゆえに助けを求めて叫びました。この叫び声は神に届きました。(出エジプト2:23−25) 祈りの答は、モーセを遣わすことであり、彼によってエジプトから導き出されることでした。しかし、その民は、驚くほど速やかに神を見失って不平不満をつぶやきました。自分たちの祈りに答えて、あれほどのことをしてくださった神をいとも簡単に見失ったのです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(出エジプト17:1−7)挙句の果ては、金の子牛を造ってこう叫びました。「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ。」(出エジプト32:4)なぜ、ここまでイスラエルの民は、神を見失ったのでしょうか。「モーセがなかなか山から下りて」こなかったからです。(出エジプト32:1)モーセが共にいて、御言葉が常に明らかにされているかぎりは、民の祈りは正しい方向へと導かれました。しかし、モーセが見えなくなり、生ける神の御言葉が不明確になった時、民は速やかに道を誤ったのです。御言葉がなければ民は正しく祈ることができず、生ける神との生きた対話も生じません。わたしたちの祈りにおいて、聖書の御言葉に聞くということが決定的に重要です。(牧 師) |
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教会委員会から 1、6月22日(金) 東北中会連合婦人会(午前10時〜午後3時)
2、7月16日(月) 教会一日修養会
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| 教会の予定 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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